夏休み (2. 会津若松)
夏休み2日目。(思い出して書いてます。リアルタイムではありませんのです)
郡山からお墓参り先の会津若松へ。
毎年行ってるので感動がなく、あまり新しい写真がありません・・・
JR会津若松駅。
昔懐かしい蒸気機関車「SLばんえつ物語号」の始発駅です。
新潟駅と結んでいます。一度乗ってみたいものです。
ボク、前に登場しましたよね・・・(^^;
せっかくだから喜多方ラーメンをお昼にしようとお店探し。
本場の喜多方市は隣町ですが、今回は時間がないので会津若松市内で。
- ジャンル:ラーメン
- 住所: 会津若松市城西町4-38
- このお店を含むブログを見る |
- (写真提供:会津花子)
喜多方ラーメンの有名店「坂内食堂」の息子さんが開いたというお店。
お店はきれいな感じで、スタッフさんも感じよし。
ネギラーメン。私の体調のせいか、お味は普通に感じました。
チャーシュー麺を食べた夫は「これこれ、喜多方ラーメンらしい」との感想。
美味しかったそうです。
高級なものから普段使いのものまで会津塗はバラエティ豊富です。
個人的におすすめのお店はこちらです。
会津は酒どころでもあります。
写真は名倉山酒造さん。見学させていただきました。(2015年)
名倉山酒造のホームページはこちらです
会津を訪れたら、お城を見学、レトロな街並みを歩き、酒蔵めぐり。お宿は東山温泉がおすすめ。ぜひ一度お越しくださいませ。
夏休み日記が、観光案内になりました。
今回は酒蔵にも温泉にも立ち寄らず、お墓参りのあとはさっさと仙台に移動しました。
夏休み (1.郡山)
夏休みです。恒例のお墓参りに福島・仙台方面に行きました。
(先日亡くなった実母はクリスチャンですので、お盆は無関係です)
と言っても、夫の実家はとうになく両親と先祖のお墓があるだけなので、ホテルに泊まって半分旅行のようなものです。
途中の三春町でお昼ご飯です。山の中でよさそうなお蕎麦屋さんを見つけました。
三春 そば遊膳 たむら屋
店内。
くるみ餅とお蕎麦のセット
お蕎麦も柔らかいおもちもおいしかったです。
鴨ネギ棒。鴨のうまみたっぷり。
お酒のおともに♪ でも、車だからお酒は抜きで。
食べログ記事はこちらです
https://tabelog.com/fukushima/A0702/A070203/7000115/
三春町から郡山へ。緑に囲まれたきれいな美術館。
郡山市立美術館
美術館のシンボル。「野兎と鐘」
企画展「自転車の世紀」
なかなか面白かったです。この企画展は写真撮影可。
木馬のようなトライシクル(三輪車)
これはどうやってこぐのか?
自転車そのものだけでなく、自転車を主題にした絵なども。
ロートレックの作品。
日本を題材に書かれた絵。
着物では乗りにくそう。
プジョーって自転車を作っていたのですね。
人気漫画『弱虫ペダル』の原画も。
ロビーにはコミックが置いてあり、自由に読めました。
郡山市立美術館のホームページはこちらです。
企画展だけでなく、常設展もターナーやコンスタブル、バーン・ジョーンズなど英国近代絵画や日本の画家の絵もあり、数は多くはないものの、とても良かったです。
このあと、郡山市内のホテルにチェックイン。
CTはもういやだ
手術後もうすぐ3か月。今日は検査の日。血液検査とCTスキャンを受けてきた。
私の胃がんはステージ1Aで、手術ですっかり切除し、リンパ節等への転移もなくがんそのものは経過順調である。だが、入院中に肺動脈血栓ができたのと、膵液漏で退院後に発熱したりしたので、先生が大事をとって短い間隔でチェックをしてくださる。今日は検査のみで、結果を内科の先生にも見てもらい来週主治医から説明がある予定。
CTは苦手。入院中に2回目の検査を受けた時にとても気持ち悪くなって嘔吐してしまった。3回目は膵液漏の高熱でふらふらしていたからよく覚えていない。もしかしたら造影剤を使わなかったのかもしれない。よくわからない。
さて、CTスキャン4回目の今日。体調は悪くなく、普通に臨んだのだが・・・ また、きてしまった・・・咳き込むと同時に強い吐き気。うー、気持ち悪い(泣。 点滴に吐き気止めを入れてもらってようやく落ち着いた。どうやら、私は造影剤でアレルギーが出るらしい。でも、今後も年に1回とか2回とか受けなくてはいけないのだろうな。いやだなあ・・・(´・ω・`)
病院に行くと、自分が健康体ではないのだということを思い知らされる気がする。一人前が食べられないだけであとはほぼ(たぶん)元気なはず、なんだけどな。まだまだすっかり「健康」とは言えないのかな。点滴も検査ももう縁切りしたい。無理だけど。
術後4日目?のお食事。具なしだけど、お味噌汁がうれしかった。
これからどうする
ずっと時間がほしかった。毎朝5時半に起きて、夫より早く家を出る。
都内まで片道90分の通勤。9時間拘束8時間実働の職場だったから、帰宅するのは残業なしで最速18時半過ぎ。我ながらよく続いたと思う。病気をして手術をして、もはや以前のような勤務は無理だと思った。夫にも強く反対された。
正社員で11年やってきた。それまでパートや派遣社員でつないできて、40代半ばで見つけた事務系の正社員だったから、本当にラッキーだったと思う。それを手放すのは、本当はとても残念だ。もはや、事務系の仕事につくことはできないだろう。体力を考えると、立ち仕事よりは楽なのだけれど。
以前の記事にも書いたように、今の会社では、希望した時短の勤務は難しそうだ。実際、時短勤務者(と言っても7時間実働)の募集はかけているそうだ。ただし、11時から19時までの勤務。それでは困る。
結局、辞めざるを得ないのではないか、と思い始めている。
辞めて、すっきりして、旅にでもでようかと。
実際はそんなのんきな話ではない。病院の証明書発行にものすごく時間がかかっているので、社会保険の傷病手当金もまだ申請できていない。辞めるとなると、おそらく「自己都合」扱いとされ、失業保険がおりるには3か月待たねばならないだろう。夫の扶養に入って、当面はやっていけるだろうが、その先、老後の備えをどうしよう。我が家は驚くほど貯えがない。(いばることではない・・・)普通なら旅どころではないのだろう。今までずっと共働きだったから、4人分の教育費の山をようやく越え、ここ数年はそこそこやってきたのだが。
どちらかというと『アリとキリギリス』のキリギリスなので、人生楽な方に流れてしまうのだ。それなら自分のせいでしょう?
いろいろと頭のなかでぐだぐだ考えながら、気持ちは行きつ戻りつしながら、実はほとんどもう決めてしまっている。いや、自分はそうするだろうと思っている。
会社を辞めて、時間を手に入れて、旅に行く。来年早々、娘の二人目の子どもの出産があるからその手伝いにも行く。それが済んだらパートを探そう。近くのスーパーのレジでもいい。昔取った杵柄、なんとかなるのではなかろうか。
ここ数年、いろいろなことがあり過ぎる。流れに流されるなら、それも良いのかもしれないなどと思ったりしている。
#guam 2015
社員旅行にて
母を送って 続き
母は膵臓がんだった。ちょうど3年前に診断を受け、膵頭十二指腸切除術の手術を受けた。81歳だった。膵臓がんは、がんを扱った本を見ると「予後が(きわめて)悪い」と書いてあることが多い。発見されにくいため、見つかった時には既に進行していることが多いからだという。母の場合も、見つかった段階でステージⅣだった。手術を決断したのは母自身であった。術後はTS-1などの抗がん剤で進行を遅らせていたが、一時は効果があったものの、胃や肝臓に転移していき、より強い抗がん剤を使っても効果は表れず(抗がん剤は進行してしまったがんを「完治させる」ものではないから)、その後は痛み止めなどの薬のみで、積極的な治療はしなかった、いや手段がなかった。
母は生きることにとても前向きなひとだった。予後が悪い、と言われる膵臓がんで3年間も生き延びたのだ。すごいと思う。痛みを訴えたり、体がつらい、と言うことはあっても、もうだめだ、とは決して口にしなかった。同じ市内に住んで、まめに様子を見て手助けをしてくれた妹によると、「あと5年かしら。(身辺の)整理を急がなくては」と、今年の初めに言っていたという。手術後3年経って、まださらに5年!・・・母上、平均寿命を超えますよ・・・
県内の大きい病院で手術を受け、体調がとても悪くなると短期で入院をしたりしていたが、多くの時間は自宅で過ごした。母は家事にとても堪能なひとで、料理も得意、自宅の茶室でお茶を教え、教会(クリスチャンである)の活動を熱心に行い、自営業の父の仕事を長年支えた。お酒も強く、食べることも好き。お洒落で、趣味も多く、中年期以降はよく旅行に行き、俳句を作り、本を読み、それでも家のことはきちんとやっていて、まあこのひとはどこから時間を捻出するのだろう、となまけものの不肖の娘は思っていた。
性格は、きつかった。言葉もきつかった。教会で行われた前夜式(通夜)、葬送式(告別式)の際に挨拶に立った方も、そのようなエピソードをおっしゃっていたので、外でもそうだったのかい!と、妹と苦笑いして申し訳ないやら、少し恥ずかしいやら。でも、親切で情に厚く、手を差し伸べることをいとわないひとだった。言葉はきつかったりしたけれど、決して冷たいひとではなかった。だから、葬儀の際、とてもたくさんの方が集ってくださったのだと思う。母は若い頃教師をしていたのだが、50年以上前の教え子の皆さんが駆け付けてくださったのも、慕われていたからだと嬉しく思った。
私は母が苦手だった、と以前のブログに書いた。正直に言うとぎりぎりまで、そんな気持ちが抜けなかった。近くにいなかったし、帰省もあまりしなかったので、母とのコミュニケーションは不足していたのだと、今になって思う。母からは毎年、お米や果物が送られてきたし、手紙も来た。お礼の電話はするものの、手紙を書く、ということはあまりしなかったので、母はもしかしたら寂しく思っていたのかもしれない。
母が亡くなったとき、そばにいたのは家族の中で私だけだった。個室に移され、どうなるかわからない状態になった。先が読めないから、一度集まった家族も、いったんそれぞれ帰宅して(私以外は同じ市内に住んでいる)体を休めよう、と言っていた矢先のできごとだった。深夜、看護師さんが血圧等の確認に来た直後、それまで苦しそうに下あごで呼吸していたのが、ふっと静かになった。風がろうそくの炎を吹き消すように、静かな最期だった。
葬儀は花にうずもれるくらいたくさんの花をいただいた。祭壇の周りに飾り切れず、別室に飾るくらいだった。とても多くの方が、見送りに来てくださった。本当にありがたかった。
今、悲しいかと言えばそういう感じではない。心の中に空虚な部分ができてしまった、という表現であっているかどうか。一番悲しかったのは、棺のなかに花をたくさん入れて蓋を閉めるときだったが、その後はやることが山のようにあり、泣いている暇がなかった。で、あってますか?自分。
自宅に戻ってきて、また日常が始まり、事務的なことや父のことは妹と弟にまかせっきりになってしまった。これでいいのか。いいのだ。きっと。