空の下を歩く

旅と日常。空の下を歩きましょう。胃がん闘病記としてはあまりお役にたてないかも。

母を送って 続き

 母は膵臓がんだった。ちょうど3年前に診断を受け、膵頭十二指腸切除術の手術を受けた。81歳だった。膵臓がんは、がんを扱った本を見ると「予後が(きわめて)悪い」と書いてあることが多い。発見されにくいため、見つかった時には既に進行していることが多いからだという。母の場合も、見つかった段階でステージⅣだった。手術を決断したのは母自身であった。術後はTS-1などの抗がん剤で進行を遅らせていたが、一時は効果があったものの、胃や肝臓に転移していき、より強い抗がん剤を使っても効果は表れず(抗がん剤は進行してしまったがんを「完治させる」ものではないから)、その後は痛み止めなどの薬のみで、積極的な治療はしなかった、いや手段がなかった。

 母は生きることにとても前向きなひとだった。予後が悪い、と言われる膵臓がんで3年間も生き延びたのだ。すごいと思う。痛みを訴えたり、体がつらい、と言うことはあっても、もうだめだ、とは決して口にしなかった。同じ市内に住んで、まめに様子を見て手助けをしてくれた妹によると、「あと5年かしら。(身辺の)整理を急がなくては」と、今年の初めに言っていたという。手術後3年経って、まださらに5年!・・・母上、平均寿命を超えますよ・・・

 県内の大きい病院で手術を受け、体調がとても悪くなると短期で入院をしたりしていたが、多くの時間は自宅で過ごした。母は家事にとても堪能なひとで、料理も得意、自宅の茶室でお茶を教え、教会(クリスチャンである)の活動を熱心に行い、自営業の父の仕事を長年支えた。お酒も強く、食べることも好き。お洒落で、趣味も多く、中年期以降はよく旅行に行き、俳句を作り、本を読み、それでも家のことはきちんとやっていて、まあこのひとはどこから時間を捻出するのだろう、となまけものの不肖の娘は思っていた。

 性格は、きつかった。言葉もきつかった。教会で行われた前夜式(通夜)、葬送式(告別式)の際に挨拶に立った方も、そのようなエピソードをおっしゃっていたので、外でもそうだったのかい!と、妹と苦笑いして申し訳ないやら、少し恥ずかしいやら。でも、親切で情に厚く、手を差し伸べることをいとわないひとだった。言葉はきつかったりしたけれど、決して冷たいひとではなかった。だから、葬儀の際、とてもたくさんの方が集ってくださったのだと思う。母は若い頃教師をしていたのだが、50年以上前の教え子の皆さんが駆け付けてくださったのも、慕われていたからだと嬉しく思った。

 私は母が苦手だった、と以前のブログに書いた。正直に言うとぎりぎりまで、そんな気持ちが抜けなかった。近くにいなかったし、帰省もあまりしなかったので、母とのコミュニケーションは不足していたのだと、今になって思う。母からは毎年、お米や果物が送られてきたし、手紙も来た。お礼の電話はするものの、手紙を書く、ということはあまりしなかったので、母はもしかしたら寂しく思っていたのかもしれない。

 

 母が亡くなったとき、そばにいたのは家族の中で私だけだった。個室に移され、どうなるかわからない状態になった。先が読めないから、一度集まった家族も、いったんそれぞれ帰宅して(私以外は同じ市内に住んでいる)体を休めよう、と言っていた矢先のできごとだった。深夜、看護師さんが血圧等の確認に来た直後、それまで苦しそうに下あごで呼吸していたのが、ふっと静かになった。風がろうそくの炎を吹き消すように、静かな最期だった。

 葬儀は花にうずもれるくらいたくさんの花をいただいた。祭壇の周りに飾り切れず、別室に飾るくらいだった。とても多くの方が、見送りに来てくださった。本当にありがたかった。

 

 今、悲しいかと言えばそういう感じではない。心の中に空虚な部分ができてしまった、という表現であっているかどうか。一番悲しかったのは、棺のなかに花をたくさん入れて蓋を閉めるときだったが、その後はやることが山のようにあり、泣いている暇がなかった。で、あってますか?自分。

自宅に戻ってきて、また日常が始まり、事務的なことや父のことは妹と弟にまかせっきりになってしまった。これでいいのか。いいのだ。きっと。